ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

ムンクの名画「叫び」、絵の人物は叫んでいない?

美術の教科書でもおなじみのノルウェー画家エドヴァルド・ムンク1893年に制作し、彼の代表作品とも言える油彩画「叫び」⬆。タイトルからして、描かれている人物が叫んでいる絵だと思っている人がほとんどだが、実はこの人物、よく見てみると叫んでいるのではなく、耳をふさいでいる格好をしているのだ。では、タイトルの「叫び」の主は一体誰なのだろうか?この絵は、ムンクが感じた幻覚に基づいて描いた絵であり、ムンクは日記にその時の体験を次のように記している。「私は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然、空が血の赤色に変わった。私は立ち止まり、酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと町並みに被(かぶ)さるようであった。友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。そして私は、自然を貫く果てしない『叫び』を聴いた」と。つまり、ムンクは自分が体験した幻覚による「叫び声」に耳を塞ごうとしていたのだ。ムンクが「叫び」を描いたのは1903年。その前年1902年、ムンクは、結婚願望の強いトゥラという女性と親しくなる。彼女はムンクに何度も結婚をせがみ、ついには勝手にムンクとの結婚を発表しムンクを怒らせた挙句、話がもつれると拳銃を取り出しムンクに向かって発砲、ムンクは絵描きにとって大切な左手中指(関節の一部)を失っている。この事件が、ムンクの精神状態に大きなショックを与え、「幻覚」が現れる引き金になったと考えられている。

 

9.11を間近で体感したソニー・ロリンズ、JAZZでどう表現した。

アメリカ合衆国の歴史上で過去に例を見ない9.11同時多発テロ事件、モダンジャズの世界で「テナーの巨人」と称されるソニー・ロリンズ(71)は、崩れ落ちた世界貿易センターからわずか6ブロック先の自宅で、この惨劇を目撃した。ジャンボ機がビルに「体当たり」した衝撃を肌で感じ,2つのビルの崩壊を目の当たりにしながら現場から避難した。ロリンズは精神的に大きなショックを受けたが、妻の支えもあって大惨事から4日後のボストン公演をキャンセルせずに敢行したのだ。それが『ウィザウト・ア・ソング (9.11コンサート)』⬆だ。未曾有の惨劇からわずか4日後,誰も平常心ではいられない状況下にあって、ソニー・ロリンズは「平常心」でこのコンサートに臨んでいる。テナーの巨人の別次元と思えるアドリブに、傷心の観客の心が揺さぶられていく。心の痛みや絶望の気持ちが,いま生きている幸福,ジャズを楽しめる幸福,そして将来の希望に向けて歩き出す。全世界が窮地に陥った時に,これほどまでに明るく華やかな演奏をしてみせたソニー・ロリンズ71歳。彼の内側から湧き出てくるメロディー・ラインの生命力が素晴らしく、どこまでもいっても陽気で観客を元気づけるそのサウンドには テロの惨劇に負けない「不屈の力」を感じさせられる。このコンサートの録音はYouTubeで見ることが出来る、ぜひご覧あれ。

 

天才彫刻家ジャコメッティの妻を寝取った哲学者矢内原伊作。

一度みたら忘れられなくなる針金のように細い彫像(⬆上写真右)で知られるシュルレアリズムの彫刻家アルベルト・ジャコメッテイ(⬆上写真左端)。1955年、実存主義哲学の日本人研究者矢内原伊作(⬆上左写真の右端)とパリで出会い、その顔に興味を持ったジャコメッテイは、矢内原に「君の顔を描かせて欲しい」と頼み、矢内原はモデルを引き受けた。しかし、ジャコメッティは矢内原の顔を「描きたいけど描けない。だから描きたい。なぜ描けないのかを知りたいから描きたい」と言い、仕方なく矢内原はモデルを務めるため毎年パリのアトリエに通いつめ、肖像画が完成するまでに3年もの歳月を要したのだ。しかし、絵がようやく完成した1958年に矢内原はジャコメッテイのアトリエに行っていない。その理由は日本に来たがっているジャコメッティの妻アネット(⬆上左写真中央)を避けるためだった。矢内原がモデルを努めるためにパリのアトリエに通いつめた3年間、絵画制作の作業の1日が終わると、矢内原とジャコメッティとアネットの3人でカフェで食事をし、その後アネットは矢内原と2人で矢内原の滞在していたホテルに帰り、明け方にジャコメッティのアトリエに帰るという、奇妙な三角関係を続けていたのだ。矢内原によれば、ジャコメッティは制作に没頭したいために妻アネットを故意に自分に仕向けていた様子が覗えたと後に述懐している。彫刻家として永遠に歴史に残る天才ジャコメッティとその妻を寝取った日本人哲学者(=法政大学名誉教授)の矢内原伊作、突拍子過ぎる2人のエピソードだと想いませんか(笑)

 

前沢友作氏が123億円で買ったバスキアの絵、何がスゴイのか。

通販会社ZOZOTOWN創業者で億万長者として知られる前澤友作氏が、5年前、NYサザビーズ・オークションでジャン=ミッシェル・バスキアの絵画⬆を約123億円で落札し 大きな話題となった。この落札金額は、バスキア絵画のオークションレコードであり、またアメリカ人アーティストによる美術作品としてもオークションレコードとなった。これほど高価な金額で取引される絵を描いたバスキア(⬆上写真右)とは一体何者なのか。マイノリティ(非白人)のバスキアは、17歳の頃から地下鉄やスラム街地区の壁などにスプレーペインティングを始める。高校を中退したバスキアは、Tシャツやポストカードを売りながら生計を立て、やがて彼の描くスプレーペインティングが徐々に評価されはじめ、23歳(1983年)の時にPOPアートの鬼才アンディ・ウォーホルと知り合い、作品を共同制作するようになる。1987年のウォーホルの死まで2人は互いに刺激しあう関係は続いたが、ウォーホルの死により孤独を深めたバスキアは、徐々にヘロインなどの薬物依存症に陥り、妄想癖が見られるようになり、1988年27歳の若さで、ヘロインのオーバードース(過剰摂取)により夭折した。彼の死後もその生涯と作品は注目を浴び、映画『バスキア』として1996年にアメリカで公開され大きな話題となった。地下鉄やスラム街の壁などへのスプレーペインティングから出発したバスキアの芸術活動は、現代美術の世界でまだ評価が定まっていないが、彼の芸術性をいち早く評価して123億円を投じた前澤友作氏の「審美眼」をリスペクトしたい。

黒人解放指導者マルコムXの名前は、なぜXなのか。

「白人にいつも「イエス」と言うのをやめ、自分自身への嫌悪を振り切った時、我々は自由への道を歩き始める」白人による黒人に対する暴力には暴力をもって戦え、と説き、黒人至上主義を掲げた過激な解放指導者マルコムX⬆。彼の姓になぜXの文字が使われていたのか。彼が父から受け継いだ姓は、その昔、白人からつけられた“little”だった。マルコム・リトルは、黒人解放運動に身を投じていくなかで、この屈辱的な“little”という姓を捨て、代わりに“X”と名乗ったのだ。「X」は自分の姓が一生分からないということを指し、アフリカにいた祖先が本来持っていた姓は、祖先たちがアメリカに奴隷として連れて来られた時に「リトル」という名に変えられ永遠に忘れ去られてしまった。「リトル」には白人の「からかい」や「蔑み」の意味が含まれ、奴隷としての識別のしやすさもあったに違いない。そのような「リトル」という名前は、本来の自分の姓ではない。自分の姓は永久に分からない「X」である。未知としての“X”という姓を、これからは黒人たちの自由を象徴する名前として、全米に知らしめたいという想いからマルコムXは、名前を変更したのだ。このマルコムXの思想に賛同し友人でもあった世界ヘビー級チャンピオンのボクサーカシアス・クレイが、やはり奴隷の名クレイ(粘土)という姓を捨ててモハメド・アリに名前を変えたエピソードを、ご存知の方は多いはずだ。

 

ノーベル賞作家カミユの、スポーツカー事故死の謎。

理性を持った人間が、病気、死、災禍、殺人、テロ、戦争、独裁主義など、人間に襲いかかる様々な「不条理な現実」に目をそむけず見つめ続ける「反抗心」を持つことが、人間性を脅かすものに対する人々の連帯を生む、と唱えた不条理主義作家アルベール・カミユ。43歳の若さで1957年ノーベル文学賞を受賞した。ノーベル賞受賞後、カミュはプロヴァンス地方のルールマランに家を構え、しばしばパリとの間を往復する生活を送っていた。1960年、友人ガリマールが運転するスポーツカーでパリに向かう途中、立ち木に衝突、助手席に乗っていたカミュは即死した(⬆上写真)。ノーベル文学賞を受賞して2年あまりの若すぎる死だった。事故の原因は、運転していたガリマールがスピードを出しすぎ運転のコントロールを失ってタイヤがパンクした事が原因と考えられている。クルマの後部座席に居て助かったガリマール夫人によると、衝突事故の直前、ガリマールがスピードを上げると、カミュが彼に向って「何をそんなに急いでいるのか」と聞いたという。カミュは自動車でスピードを出すのが嫌いで、自分で運転するときはひどく注意深いドライバーだった。「自動車事故で死ぬことほど馬鹿げたことを思い付かない」とまで言っていたという。パリの新聞「Paris-Presse」紙はカミユの死を「不条理」というワンワードの見出しで伝えた。それまで不条理の思想を追求し書き残してきたカミュの死を、リアルに表現した言葉だった。

 

神と約束、牧師になったロックの帝王リトル・リチャード。

ポール・マッカートニープリンスなどに大きな影響を与えたロックンロール界の帝王リトル・リチャード。「のっぽのサリー 」「ルシール 」「ジェニ・ジェニ 」などのヒットナンバーは日本人にもお馴染みだ。リチャードが人気絶頂の25歳の1957年末 - オーストラリアでのツアーに向かっていた彼は、移動中の太平洋上空で、乗っていた飛行機のエンジンが火を噴くのを窓から目撃し「無事に着陸できたら牧師になる」と、イエス・キリストに誓い、搭乗機の無事着陸を祈った。無事シドニーに到着したリチャードは、周囲が止めるのに耳を貸さず突如引退を発表し、アラバマ州オークウッド大学に入学して神学を修め牧師となったのだ(⬆上写真)。牧師となったリチャードは、ロックを罪深い悪魔音楽として遠ざけゴスペル(宗教音楽)だけを歌っていたが、5年後の1962年に英国へのゴスペルツアー会場で、電撃的にロック歌手への復帰を果たしている。最初、会場でゴスペルを歌っていたリチャードに観客がまったく無反応だったのを見て、自ら封印していたロックンロールの解禁を決断、往年のヒットナンバーをその場で次々歌うと会場は割れんばかりの歓声が沸き起こったという。この英国での復帰コンサートの前座を務めていたのが、無名時代のビートルズだった。ロック歌手から牧師にそして再びロック歌手と数奇な運命を辿ったリトル・リチャード、1986年に、「ロックの殿堂」入りを果たしている。