ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

ロックの革命児デビッド・ボウイが京都に家を持っていたはウソ。

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世界的な名声を誇ったロック界のレジェンドであり俳優としても活躍し、日本映画「戦場のメリークリスマス」にも出演したデビッド・ボウイ(⬆上の写真)。彼は大の親日家で歌舞伎の様式美に魅せられコスチュームにも日本のスタイルを取り入れていた。日本愛が昂じたデビッド・ボウイは、一時期、京都にも住んでいた事があった。彼が京都に家を所有しているとまでウワサされていたが、実際にはデビッド。ボウイが京都に家を所有していた事はなかった。そういう誤解が生まれたのは、京都に住んでいた「DAVID」という同じ名前を持つ外国人の邸宅をデビッドがひんぱんに訪れていたことがそのような誤解を生んだのだった。彼は家を所有していたとウワサされた山科区の九条山周辺を散策していた折に、偶然、ある豪邸に「DAVID・ KID」と書かれた表札を見つけた事が始まりだったという。デビッド・キッド氏はアメリカ人で 純和風の豪邸に住んで日本美術に造詣が深い人物であり、訪ねてきたデビッド・ボウイと意気投合し親交を深めていったのだという。デビッド・ボウイは歌舞伎の女形に両性具有的魅力を見出し、ステージ衣装にアレンジしたり、歌舞伎の「早替わり」の要素をステージパフォーマンスに取り入れた初めての英国人ロック歌手でもあった。ボウイは「スペース・サムライ」と名付けた日本のにインスパイアされた衣装(⬆上の写真)や、着物にインスパイアされた衣装を好んで羽織り、曲の合間などに早替わりするパフォーマンスで観客を魅了し続けた。ボウイのこうしたパフォーマンスは東洋の異文化から要素をただ盗んできただけという批判も一部にはあったが、東西の文明を見事に融合させた彼のパフォーマンスは、ロックの世界にビジュアル革命を起こしたロッカーとして永遠に語り継がれるに違いない。

トラクターの会社ランボルギーニがなぜフェラーリを超えたのか。

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「カウンタック」や「ディアブロ」、「アヴェンタドール」といった数々のスーパーカーを登場させてきたランボルギーニは、今から56年前の1964年にスーパーカーメーカーとして華々しくデビューする以前はトラックや農業用トラクターを生産する会社だった。ランボルギーニが、突如としてスーパーカー業界に参入して成功を収めたキッカケは何だったのか。創業者であるフェルッチオ・ランボルギーニは、農業用トラクターで巨万の富を築くと、富の象徴である高級車フェラーリを手に入れる。しかし、当時のフェラーリにはクラッチに決定的欠陥があり度重なるクラッチ故障に頭を痛めたランボルギーニは、自社のトラクター工場でフェラーリを修理することを思いつく。いざクラッチを分解してみると、使われていたのはなんと自社のトラクター用パーツと同型のクラッチ板であり、しかも全く同じパーツなのにフェラーリはトラクター用の十倍の値段を付けていた。メカニックでも優秀だったランボルギーニは、このクラッチ修理と同時にキャブレターを改善、さらに当時フェラーリに採用されていなかったDOHCに改造し、公道で走ると新型フェラーリを「カモ」にできるほど速いクルマに仕上げる事ができた。これをキッカケにしてランボルギーニはスーパーカービジネスに乗り出す決意をしたといわれている。フェルッチオ・ランボルギーニが経営者であると同時に高度な技術者だった事が、ランボルギーニがスーパーカーの世界で成功できた一番の要因だったと言えるだろう。

 

インフルエンザウィルス発見、英国人は間違い日本人が正解。

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インフルエンザの病原体が細菌ではなくウィルスであることを最初に発見したのは、1933年イギリス人ウィルソン・スミスら3人によるものと長い間言われてきたが、実はそれより14年も前の1919年に日本人の医師山内保博士がインフルエンザは細菌ではなくウィルスに拠るものという発見を既にしていたのだ。その事実がわかったのは、つい先ごろの2010年に「100年ほど前の医学雑誌『ランセット』に日本人のインフルエンザウィルス発見の論文が出ているが…」という問い合わせを米国の研究者から受けた日本の医師が調べた結果、わかったのだ。77年間も最初の発見者と認定されて来なかった山内保博士。彼は、患者のうがい液を素焼きの壷に通し、人に感染させるという実験を行った。その結果、感染者が出たことから濾過性病原体、つまりウイルスであることがわかった」という。素焼きの壷は、非常に細かいものしか通さないことから細菌ではなくウイルスであるとわかったのだという。山内博士はフランスのパスツール研究所で研究員を努め、帰国後は星製薬の細菌部で研究しインフルエンザウィルスを世界で最初に発見した。しかし、同じ時代に皮膚がんの発生に成功した病理学者山極勝三郎博士が1926年のノーベル賞候補になりながら「東洋人には早すぎる」という理由で落とされたように、山内博士がアメリカの医学誌に発表した「インフルエンザウィルス発見」の論文は、当時のアジア人を見下す欧米の風潮によってネグレクト(無視)されてしまい、77年もの間、ヤミに葬られたままだったのだ。

 

日本に借金13兆円を返さない韓国、返さないのがマナーだと?

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日本から韓国に貸したお金(資金援助)は、1965年の8億ドル+α(経済協力金)に始まって1983年に40億ドル(特別経済協力金)1997年に100億ドル(通貨危機救済金)2006年200億ドル(ウォン高救済基金)2008年に300億ドル(ウォン安対策費)その他、2002年開催の日韓ワールドカップのスタジアム建設費で融資した300億円の未返済など、利子の未払いを含めて日本円で13兆円ほどの日本から借りた金をいまだに一切返さないままだ。その一方で、日本の領土である竹島を勝手に占拠したり、政府間で解決済みの慰安婦問題や徴用工問題を蒸し返して賠償金を求めてくるなど、韓国の国民性は日本人の常識的な理解の範囲を超えている。そんな中、韓国の著作家シンシアリーの「なぜ韓国人は借りたお金を返さないのか」という著作(⬆上の写真)を読んで、お金を返そうとしない韓国のナゾが解けた。韓国では「確かに金は借りたけれども、すでに『情』を支払っているから、このうえ金まで支払うのは公正ではない」という考え方をするのが普通なのだという。ここで言う「情」とは何か? それはお金を貸してくれた人に示す親愛の情であり、それは決して無償のものではなく「情」をかけられたなら必ず対価が発生する。それが「借金を返さない」理由なのだという。この理屈だと、貸してくれた人は、それを返せと言わないのが借りた人と貸した人(韓国・日本)の関係を平和的に維持するもっとも「公正」なマナーだというのだ。借りた金を返さないのが韓国流のマナーと知った途端、呆れかえって返す言葉も出てこなくなってしまった(笑)

 
 

400万反対ツィート、ヒロユキ氏「民意を得た法改正をナゼ騒ぐ」。

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黒川検察官の定年延長を可能にする「検察庁法改正案」について、改正案に反対するTwitterへの投稿が約400万件に達するなど騒動が拡大している。そんな最中、居住地のパリから中継でTV情報番組に出演した「2ちゃんねる」創設者の西村博之(ヒロユキ)氏。「皆さんが投票して自民党を与党にしているわけだから、(安倍自民党政権が)別に堂々と(この法案を)変えちゃってイイと思うんですよね。自民党としては『黒川さん残します』と。僕らの民意を得てやっているわけですから、『これは民意です』と言ってやっちゃえばいいのに。なんで黒川さんのせいじゃないとか変な言い訳するのかなと思って見てます」とコメントした。ヒロユキ氏が言うように野党やタレントなど著名人が Twitterで反対をいくら叫んでも、圧倒的な多数からなる自民党政権が押し切ればこの「検察庁法改正案」は国会をすんなり通ってしまうのは自明の理だ。国民の大多数が自ら選挙で投票して選んだ自民党議員達によるこの「検察庁法改正」を多数決で決めることに、どこにイケナイ部分があるのかと問われれば返す言葉もないだろう。かつて、ヒトラー率いるナチス党が1932年7月の総選挙でドイツ国民から37%もの支持を得て第1党に躍進したあとのホローコースト(ユダヤ人大虐殺)の歴史を思い出して見ればいい。前回の選挙で自民党に一票を投じた多数派の人々が、今になって改正法案反対をいくら叫んでも手遅れだろう。法案反対を叫ぶ前に、ヒロユキ氏が言うように、民主主義の基本である「多数決の原理」というものをしっかりと頭に入れておくことが必要なのではないだろうか。

任天堂がラブホ経営、と暴いたアメリカCNBCニュースの企業紹介。

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米国のビジネス誌ファストカンパニーが2018年に「世界で最も革新的な企業」を選んだ中に日本から唯一選ばれたのがゲーム業界のニンテンドーだった。任天堂は「Wii U」の失敗後、本来ならゲームアプリのメーカーとして再出発すべきという考え方が常識とされていたのにゲーム機の販売をあきらめず、Nintendo Switchの販売後、「スーパーマリオ オデッセイ」と「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」の歴史に名を残す2つのゲームを生み出した功績が評価されたのがその理由だった。その任天堂が 創業した131年前から今日まで辿ってきた企業歴史について、最近アメリカのニュース専門放送局CNBCが紹介した。ゲームの分野において、知らない人はいないぐらい世界的な知名度を誇る「任天堂」だが、最初からゲーム分野で成功をおさめていたわけではなく、ゲーム分野に進出するまでは「ラブホテル経営」など数多くの事業に手を広げていた企業であると紹介(⬆上の写真参照)。創業して131年。ファミコンを出してからでも 37年。長い歴史の中では何度か苦境に陥ることもあり、ラブホテル経営もそうした中での止むに止まれぬ選択肢だったと言えるだろう。 それでもつねに新しい市場を創造し続けて、立ち直ってきた任天堂の企業としての逞しさの根底にあるモノは、社名の由来にあると言えるかも知れない。ニンテンドーの社名は、任・天・堂という3つの漢字からなり、それは”運を天に任せる”または”仕事に全力で取り組む、しかし最後は天にゆだねられる”という意味だとか。そして、運を天に委ねた結果が、世界中の誰でもが知るグローバルカンパニーとしての成功だった。

 

 

ビットコイン発明者ナカモト・サトシ日本人説は本当か?

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今から6年前、仮想通貨「ビットコイン」を発明した「ナカモト・サトシ」と名乗る人物(⬆上の人物)を、米ニューズウィーク誌が直撃した。本人は「もう過去のこと」と取材に取り合わず、後には「ビットコインとは関係ない」と否定したという。  ナカモト氏は2009年「ビットコイン:P2P 電子マネーシステム」と題した論文をインターネット上に公表し、ビットコインの生みの親とされ、「中本哲史」という漢字表記もあり日本人とみられていたが、実名かどうかを含めて全体像は謎に包まれていた。直撃インタビューでは「私はもう何の関係もないし、話すことはできない。(ビットコインは)ほかの人の手に渡っている」とだけ話してそれ以上の取材を拒否したという。しかし、この言葉からは、ナカモト氏がかつてビットコインに携わっていたことがうかがえる。ナカモト氏は、1949年、大分県別府市生まれで64歳の日系人でカリフォルニア州立科学技術大学を卒業後、「ドリアン・S・ナカモト」と名乗るようになった。ニューズウィークによればナカモト氏は米連邦航空局でソフトの技術者として働いていたが、「この10年ほどはどんな仕事をしていたのかは不明」とし、この期間をビットコインの開発に充てていたと推測されている。実際にビットコインのプログラムコードは、協力者は存在したものの、基本的にはナカモト氏が単独で組み上げた可能性が高いといわれている。一方で、ナカモトを名乗る人物の英語が流暢であり、彼のビットコインに関する論文に日本語が使われていないため、日本人説を疑問視する見方もある。しかし、日本人以外の人物だとしたら、「ビットコインのシステム論文」発表の際に、日本人の名前を わざわざ名乗る必要があっただろうか。ビットコイン発明者ナカモト・サトシは紛れもなく日本人「中本哲史」氏に違いない。